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アスキーこぼれ話&メール紹介

2010年02月09日

 毎週火曜は週刊アスキーの発売日。
 なので火曜のブログは僕が連載中の「ま、金ならあるし」に書けなかったことの補足情報だ。

 今週連載分は「母親vs税務署」の第1回。
 お話はどんどん加速して、とんでもない方向へと飛んでいくのでお楽しみに。

 でもね、自分の親の話って難しいよ。書いてみてわかった。
 それまでの自分の感情と、書いているうちに発見する親の気持ちとがグチャグチャになっちゃう。
 母親をネタにした作品が、どれもセンチメンタルになる理由、ちょっとわかったなぁ。
 自分の中に取り込んで文章化したとたんに、やたら厚みをもって存在しちゃうんだよな。まいった。

 さて、前回に続いて、「私はこんな人です」メールの中からひとりだけ紹介。
 ひとりだけ、という理由は「とてつもなく長いから」(笑) これでも一部省略してるんだけどね。
 このブログを読んでいる人には、本当にいろんな人がいる。
 前回もそうだけど、今回もいろいろ考えちゃったよ。
 
 メールを読んで考えたこと、総まとめなどはそのうちに書きます。
 では、なが~いメール、お楽しみください。

*******神奈川県30代企業広報、女性*******

岡田さん、はじめまして。Twitterでは●●でつぶやいております、●●と申します。

岡田さんのことは以前からお名前と「オタキング」の称号は存じ上げておりました。とはいえ、私自身は漫画やアニメなどのディープな世界にまで自分が入り込めておらず(今でもそれほどではありませんが)、私にとっては“名前を知っている有名人”ぐらいの存在でした。その後、「いつまでもデブと思うなよ」のどこかの書評で、“オタクのダイエットはすごい、ロジカルだ!”という強烈な推薦(?)を見て読んでみて・・・ほほう!と思ってから、岡田さんのその他の本を手に取り始めました。過去のものもいくつか読ませていただきましたが、いつデブ後に出版された「世界征服は可能か」が、私の中での岡田さんのベストワンです!あんなにまじめに、世の中の多くの人と共有できるわかりやすい事象をロジカルに論破している本には、出会ったことがありません!あの本を読んでから、岡田さんは私が一目置かせていただく方々のひとりとなりました。

岡田さんのブログのお言葉に甘えて、今回、“私について”のメールをお送りしました。以下、かなり長くなりますが、お許しください。文字数制限がなかったので、遠慮なく思うままに書かせていただこうと思います(甘えすぎていてごめんなさい!

最初に、ちなみにHN=「●●」の由来は、本名とは関係ありません。高校時代に、中学の卒業アルバムの写真を見て、同級生が「片平なぎさに似てる」と言ったことで、私のニックネームは「なぎさ」になり、現在に至ります。「片平なぎさ」に似ている、といったのはその同級生だけで、よく言われるのは、鈴木杏樹、瀬戸朝香に似ているらしいです。本人はよくわかりません。

私は、アラサーともアラフォーともいえない30代ど真ん中の団塊Jr.ロスジェネ氷河期まっしぐらの、行き送れパラサイト独身激務サラリーマン女性です。●●に住んでいますが、横浜の象徴とも言えるランドマークタワーは家から見えません。先に書いてある通り未婚(離婚歴もなし)で、父、母、弟の家族4人で暮らしています。職業は某企業の広報を担当しています。プレスリリースやら取材やら記者会見を担当する仕事ですが、昨今の市場の冷え込みでアピールしすぎるネタも少なく、派手に吹くと嘘になってしまいそうなので、比較的穏やかな時間を会社で過ごしています。でもその代わり給料も冷え込み気味です(怒。職場はさる事情により外国人(アメリカ人が多いですが、中国やインドの同僚もいます)がそれなりに含まれており、たまに英語のシャワーを浴びます。英語が苦手で、10年勉強してもTOEICが750点すれすれな私にとっては、大変ビミョーな環境です。通勤は東海道線を使い1時間半以上かけて、半年で定期代20万近くを費やしながら、●●から東京都中央区まで、毎日通勤しています。時折、24時間しかない1日のうち4時間を通勤に使うのは無駄だという意見もいただくのですが、私にとっては貴重な居眠り、リフレッシュの時間になっているので、それはそれで自分ではよしとしています。たぶんTwitter使うのも通勤電車の中がいちばん多いですし。

さて、私の生い立ちですが・・・1974年に●●で産まれました(現在満35歳)。しかし、当時の住所は東京都下。母親の実家近くへの里帰り出産といえば聞こえはいいですが、当時父が急に3ヶ月の海外出張に行くことが決まり、急遽そうなったとか。で、その東京都下に住んでいたのも1歳ちょっとまでで、私の中ではまったく記憶にありません。

地元の幼稚園(私の年代は2年制が主流だったので2年)→地元の公立小学校→地元の公立中学校→いちおう地区のトップの公立高校→1年間のモラトリアム(駿台予備学校)→池袋にある東京六大学のビミョーなポジションの私立大学→新卒で今の会社に入社して、現在に至ります。履歴書的には世間全般で見たら、まあそこそこ無難な感じだと自他共に思って/思われています。とはいえ、今の職場では学歴最下層という現実と、最近痛切に自覚し始めている自分の至らなさもあって、この経歴を捉えるのは自分ではつらいポイントがいくつかあります。

私は、ずっと新聞記者になりたいと思っていました。新聞記者を目指していました。このことをはっきりと自分で意識するようになったと記憶しているのが、 10歳のとき。小学校4年生。将来の夢は何ですかと聞かれて、そう作文を書いた覚えがあります。なぜ新聞記者になりたかったのかというと・・・我が家はよくニュースを見る家庭で、毎日特に何も考えず、日々のニュースを見ている毎日でした。あるとき、何かのニュースでふと思ったんです。「これは本当なのかな?」と。自分の目で見たらどうなんだろうと。ニュースの現場に自分も行ってみたいという好奇心から始まりました。いろいろと取材記者について小学生なりに調べていき、自分は文章を書くのが好きだということもあって、いつの日かターゲットは新聞記者になりました。

中学時代もその執念を抱き続け、新聞記者になるためには・・・大卒の資格が(当時は)必要でした。なので大学に行かなければならないという焦りがあり、高校受験の際にはとにかく大学にいけるということを最優先に考えました。焦るあまり市内の某大学付属高校の受験を試みるもいろいろ障害があり、紆余曲折の末、地元の学区の公立高校に進学しました。母は実はこの公立高校(学園紛争の結果全国でも有数の学生自治、自由な校風が特徴の高校でした)に進学してほしかったから、引越当時に検討していた中でこの●●の家に決めたんだ、結果的にこの高校にお前が入れてうれしいという話をあとから聞かされたのは、とても驚きましたが。

高校時代はとても楽しく恵まれた生活だったと思います。この高校での3年間がなかったら、もっと自分は狭くていやな奴になってただろうと思うぐらい、“大人な仲間”に恵まれました。ですがあまり大学受験のお世話をしてくれない学校だったため、世間では“入るのは難しいけど入った後に馬鹿になる”とか、“4 年制高校”と揶揄されている言葉そのままに、見事に浪人。とにかく英語がダメでダメで、大学受験は本当に苦しかったです。でもとにかく記者になるためには大学にいかないと!という一心で、浪人時に受けた全9校中下から3番目の大学しか受かりませんでしたが、その大学に進学しました。ちょうど高校時代に55 年体制が崩壊し細川政権が誕生。激動の政治状況が起こり、今までのように市民が政治に無関心なのは結果的に生活にもよくないんだと強く意識し始め、政治を生活の視点でわかりやすく伝えていける記者になりたいと思い始めたのも、この頃です。

大学は・・・ほとんど行っていませんでした。正直、世間で見たらそこそこの大学のはずなのに、同級生や先輩のレベルがこんなに低いのか!と驚愕しました(高飛車な物言いなのでここでや家族にしか言いませんがw)。端的にいえば、何か点取りは得意なんだけど、地頭が悪いというか、自分で考えない人ばかりだったのに、本当にがっかりしました。そんなこともあり、大学時代の友人は皆無です、あはははは。で、肝心の授業も自分の本を買わせるのが目的だけ、毎年のノートが同じといったものばかり。そこはもう割り切って、出席しなくてもレポートだけで単位が取れるものばかりをセレクトして履修、大学には語学授業以外は週に1回行けばいいほうでした。それでも卒業時には単位は2桁の余剰が出て、成績のうち6割がA。結果的に就職先もクラスでは上位1割に入るところになったので、同級生にはかなり「要領がいい」といやみを言われました。あ、でもゼミだけは、そこそこまじめに取り組みました。ゼミのメンバーは、厳しいゼミだとわかっていて入ってくる人がほとんどだったので、それなりに面白かったし、今でも年賀状程度のやりとりはあります。

で、ここで10年以上自分の中で暖めていた新聞記者への門をたたくことになるわけです。でも、私はその時に気づいていなかったのです。昔から記者になりたいという自分に対し、多くの方から「お前向いてるよ」「お前なら絶対になれる」「お前なら受かるだろう」という言葉ばかりをいただいていました。なので、なれるものだとどこかで過信、盲信していた自分がいたんです。そして昔から論文も何もしなくても上位評価をもらっていたし、時事問題や一般教養も、大学の同級生やマスコミセミナー(短期集中講座だけ通いました)で出会った仲間よりも、ぜんぜん多くの知識がありました。ただ、私はやっぱり「倍率の高い試験への対策」を怠っていたんです。大学現役時代のマスコミ試験は、すべて筆記で落ちました。面接の機会すらもらえませんでした。

ただ私は家の事情で大学院というモラトリアムは選択できず、同時に社会人を経験するのも悪くないと軽く思っていました。新聞社ならどこでもいい・・・という思いはありましたが、どういうわけかいつも自分が読んでいた朝日新聞か毎日新聞がいいと思っていたこと(読売はジャイアンツが嫌いだし、自民や経団連とのつながりとかがあり自由に書ける雰囲気が無さそうだったので)、その2つなら朝日が社会人募集をしていることを知っていたので、まずは一般企業に就職しようと決めました。新聞社の入社試験と並行して一般企業もぽつぽつ受けており、就職氷河期といわれた中でも世の中で比較的知名度の高い企業から、GW前に内定をもらうことができました。その時点で他の選考が進んでいた数社はお断りして、現在の会社に入社を決めました。

私自身、大学4年のこの段階では、当時の自分の選択に迷いはありませんでした。実力不足なのだから仕方がないと。でもあきらめるわけじゃないから、と自分に言い聞かせました。大学時代、いや漠然と高校時代から、とりあえず30歳までは記者を目指してがんばろう、と自分と約束をしていました。30歳の根拠は、朝日の入社試験の年齢制限が、入社時満30歳までだったのもあります。で、それを自分の中で履行するだけなんだと。ただ、大学のゼミの仲間や教授は、私に大学院進学を薦めました。特に卒論の担当教授は私の就職先が激務だということも踏まえて、「記者になりたいんだったら院に進みなさい、あなたがどれだけ記者になりたいと思っているか知っているから。そんな記者への思いを残したまま就職しても、まともに働けないぞ」と、口頭試問では卒論の内容はまったく聞かれず、ずっと説教を聞かされました。

大学卒業後は、そのまま今の会社に就職。芸(=知識)がなく、どうせ3年やそこらで辞める予定なので足が軽いほうがいいだろうと、営業を希望。そして希望通り、営業としての社会人人生をスタートさせました。最初の配属部門は私の希望ではなかったものの、入社1年半後には希望が通り、マスコミ企業を担当する部門の営業部に配属になりました。担当したのは、大手通信社様でした。朝日を担当したいと思う反面、担当するのが怖いと思った私もいましたので、結果オーライです。仕事は確かに激務で、毎日夜中の3時までは会社で居残り。この頃はさすがにまずいと思い、会社からタクシーで15分の場所に会社の借り上げ住宅を確保して、実家との二重生活をしていました。自分で言うのもなんですが、そこそこ成績もよく、表彰や賞金などもぼちぼちもらえました。やっぱり好きなもの(この場合はマスコミ業界)に触れているって大事だなと思っていました。

で、運命の入社4年目の夏がやってきました。朝日新聞に社会人採用のお知らせが掲載されました。1次は書類選考。A3の所定の用紙いっぱいにこれまでの思いを書いて、提出しました。書類選考は、通過。後で知りましたが、この時点で10倍以上の倍率だったとか。そして社会人採用の倍率は100倍とか。そんな話を聞いてびびる中で、1次の筆記&個人面接、2次のグループ面接も通過。1次の面接官には、君は面白いね、一緒に働きたいとも言ってもらえ、ああお願い何とか何とか受かってくれ!と思いながら迎えた3次、最終面接。最初に健康診断で血をスピッツ3本も抜かれ、緊張がピークに達した中で通された、役員会議室。ものすごく広い、赤いふかふかのじゅうたんが敷き詰められた部屋。自分が進められた小さなひとつの椅子のはるかかなたの正面に、10人の役員が座っていました。「なぜ新聞記者になりたいんだね」「今の仕事でやってきたことは」・・・そんな一般的なことを聞かれ、何だか自分でもむきになって答えていた気がします。面接官の中に、聞いたことのある名前の人がいました。朝日新聞を担当する先輩からよく聞く名前、その当時は政治部部長の人でした。その人がとても厳しい質問をしてきたのを、覚えています。手ごたえがまったくわからないまま、15分の役員面接は終了しました。

結果は2日後に、内定者のみ携帯に直接連絡でした。その日、早く部屋に帰って、携帯を肌身離さず持って連絡を待ちました。でも、何時になっても、電話は鳴りませんでした。その日は眠れませんでした。ベッドの中で携帯を握り締めたまま、呆然と天井を眺めていました。そのうち外が白く明るくなってきました。ようやく「自分は落ちたのだ」という状況を理解し始めました。翌日、一睡もしないまま出社し、仕事が手につかず、どうやったら次の試験で受かるんだろうということを考えながら、ひたすらネットの検索でマスコミ入社試験攻略法とかいったものを探して回りました。

そこで発見したのが、北海道のマスコミ受験予備校というか、私塾でした。Wセミナーとは違う印象を受け、素直に「昨日、朝日社会人の最終に落ちた者です。次の試験では受かりたい。どうしても記者になりたい。なのでぜひサポートをお願いできないか。入学させてほしい」とお願いしました。とはいえ北海道には通えないので、通信制扱いにしてもらい、月に1回、仙台への出張授業への参加を許可してもらいました。

さっそくそのマスコミ塾の先生に志望書などを送り、これまでの経緯について、何回かやり取りをさせていただきました。その結果は、「どうしてあなたが落ちたのかがわからない。受かってしかるべきレベルの人」という評価が返ってきました。それがわからないから、私も困っているという話をし、とりあえずまあもう1回まずは私が苦手とする筆記試験対策をきっちりしましょう、ということになりました。毎日日付が変わって借り上げ住宅に帰り、そこから毎日最低1時間は漢字の書き取りや時事問題の問題集を解き、2週間に1回は想定テーマでの論文を提出して添削をしてもらったりして、半年間の準備期間を過ごしました。

そして迎えたのは、翌春の一般入社試験。この時点で満27歳、入社時には28歳ですが、新卒と同じ土俵です。応募書類を書いて、ここは筆記試験から始まります。で、筆記試験、あっさり通りました。びっくりです。現役時代にこの塾があればと心底思いました(その当時はなかったそうです)。で、1次面接、2次面接もとんとん拍子で進みました。迎えた最終面接。これは半年前に受けた社会人試験と同じ体裁です。やっぱりスピッツ3本分血を抜かれてから、役員会議室に通されました。前回と同じ椅子、同じじゅうたん、同じ10人の役員面接官。しかし、前回に比べ、距離が少し縮まった気がしました。

「半年振りですね、●●さん」

いきなりその言葉から、面接が始まりました。役員の大半は半年前と同じで、かつそのときにいた役員は全員、私を覚えていたそうです。この半年間、どうでした?と聞かれたので、自分に足りなかったのは何だったのかと考えたこと、それでもやはり記者になりたいと思ったことを、前回に比べて、落ち着いて話すことができました。前回はひたすら「がっついた自己主張」対応になってしまっていたのが自分の反省点でもあったので、そこは気をつけて話したつもりです。最後に聞かれたのは、年齢と、結婚と、今後の人生プランでした。私は記者になることを最優先にしていたので、大学時代、就職活動前に「記者になる夢をあきらめろ」と迫ってきた3年付き合った彼氏とは別れ、その後面倒なことを起こしたくないので、交際関係はずっとお断りしてきていました。そうした具体的なことはもちろん話しませんでしたが、まずは記者になってから考えたい、と面接官に答えました。面接はそれで終了しました。

そして、その面接の結果の連絡も、私の携帯電話には来ませんでした。連絡がないということは、前回同様、落ちたということでした。借り上げ部屋の生成りのカーテンとベッドシーツが何か病室のように見え、このままだと自殺してしまうかもしれないとふと思いました。私はその日のうちに、身の回りのできる限りの荷物をまとめて、●●の実家に帰りました。事情を話して、こちらの家に戻らせてほしいと母に頭を下げました。母は好きにしなさいといいました。そこから借り上げ部屋はほとんど使わないまま、次の更新で解約し、実家に出戻りという名実ともにパラサイトな人生になりました。

マスコミ塾の先生に落ちたことを報告し、自分の中では30歳までチャレンジし続けたいと、話しました。塾の先生は厳しい方なのでおせじはない方。なので本当に無理だと思っていたら、ここであきらめろと言ってくださったはずです。しかし先生は続けたほうがいい、あなたは必ず記者になれる実力がある人だからと言いました。しかし、先生はこう続けました。「とはいえ、私が教えてあげられることは、この1年ですべてお伝えし、サポートしました。私は●●さんが受からない理由がわからないのです。なので、この塾に残っていただいても、これまでと同じことしか、教えてあげることができません」。なので、そのマスコミ塾には通信制として時事問題のupdate資料をもらい、論文の添削のみをもう半年対応してもらうことで、お願いしました。

半年後の朝日秋の採用試験と社会人選考は、筆記や書類で落ちました。春の試験の面接で落ちた人はそもそも落とされるといううわさもあったので、翌年の春に再度勝負をかけようと思い、そこからは一人で準備を継続していました。この秋には、戯れで某公共放送の中途採用試験を記者職で受験し、これもなぜか最終面接で落とされました。受信料を払っていないのがばれたというのも可能性が高いのですが、大変失礼ながら受かってもどうしようというところだったので、落ち込みはしませんでした。ただ、この時に「ここも最終で落ちるのはなぜだろう」とは考えました。でも答えは出ませんでした。

翌春の、朝日一般入社試験。受験時28歳、入社時29歳。だんだん厳しくなってきました。筆記は、通りました。しかし、1次面接で、落ちました。秋は、筆記で落ちました。

とても、悩みました。正直、もう私の中で打つ手がなくなっていました。志望書類に書くことも、ネタが尽きてきました。ネタが尽きたというよりは、自分の新聞記者になりたい動機は変わらないし、やりたいことも根幹には変化はありません。ですが、この書類では、もうダメなんです。通らないんです。どうしたらいいかわからないまま、ついに満29歳秋の採用には、書類を出さず、受験を見送りました。

そして、自分との約束である、最後の年、最後の試験の応募書類締め切りである、3月を迎えました。自分が30歳になったら終わりと決めていたので、夏生まれの私は秋試験の段階では30歳になっているので、この春を最後にしようと決めていました。ですが、毎日、書類とにらめっこしますが、いっこうに埋まりませんでした。最後まで散々悩んで、締め切り当日の夜には京橋郵便局に近いスタバでずっと書類を前に座っていましたが、結局書けませんでした。提出できませんでした。

こうして私の、30歳までの約束だった新聞記者へのチャレンジは、終わりました。

その後どうしよう?と漠然と考えましたが、ちょうど28歳のときに社内でもスタッフ部門に異動できたこともあり、今の仕事を続けながら、第2の人生を過ごそう、もう無理に目標を決めずに毎日を地道にゆっくり過ごそうと考え、自分に言い聞かせるようにしていました。

その3月の20日頃のことです。とにかく左のみぞおちあたりに激痛が走り、激しい嘔吐と下痢に見舞われました。夜間救急外来で近所の救急病院に駆け込み、症状から緊急入院といわれたもののベッドの空きがなく、緊急処置室のベッドで2時間の点滴を打ち、症状が落ち着くまで自宅安静を命じられました。胃カメラ検査などもしましたが、潰瘍などの症状はまったくなく、担当の医者も原因がわからないと首を傾げていました。1週間ぐらいで何とか仕事ができるぐらいにまで症状が落ち着いたので、原因不明の胃痙攣の症状を抱えながら職場に復帰、第2の人生をひっそりと歩き始めました。母はこれに対して、私の新聞記者になりたかったという今までの人生がかなり負担だったんじゃないのかと、ぽつりと漏らしました。私も、そうなんじゃないかと思いました。いろいろ、自分の中で大きな負担がかかっていたのだろうと、それが最後に一気に噴き出たんじゃないか、なんて思いました。でも、終わったことですから、そう、終わったことなので、これも最後の記念だと、今では笑って話せる思い出です。

とはいえ、すぐに気持ちを切り替えられるはずはなく、1年間は呆然とモラトリアムのような時間を過ごしました。仕事もわりと暇な部門だったので、“神様がくれた人生の休暇”だと思って、おとなしく好きな横浜ベイスターズの追っかけなどをして過ごしていました。

31歳を迎えようとした頃に、急にとてもお世話になった方が亡くなったとの知らせが入りました。以前、北海道の自然教室に参加をしたのが縁で、現地の方と毎年夏に同窓会キャンプをしていたのです。その中心メンバーの方が、急性白血病で亡くなったとの知らせでした。病気になったことも知らず、そういえば2年前に部署を異動してから夏のキャンプにあんまり来なくなったなあ、と我々がぼやいていた方でした。

その方は、まだ私が新聞記者を目指していて、試験がうまくいかず荒れていたときに、北海道に移住しないか、と声をかけてくださった方でした。ちょうど君に合いそうな仕事も紹介できる、君を推薦するから、僕がサポートすると言ってくださった方でした。私にはその方への恋愛感情といった発想はなく、普通に「私は30までがんばる」と、即答でお断りしたのです。後々になって、どうやら(ご想像にお任せします)だったらしく。でもその後、地元の方と知り合って結婚されたばかりの出来事だっただけに、本当に驚いたし、言いようのない悲しみでいっぱいになりました。

実は、その知らせが入る3日前に、その人が夢に出てきたんです。●●、元気か?って。それもあって、本当にその知らせに驚きました。なぜか3日前に大手町にいたとき、「この辺に将門の首塚があったなあ、ちょっと寄っていこう」と、行ったんです。そして職場に帰ると、自称霊感が強いという先輩が、「あなた何か連れて帰ってきたでしょ」というので気にしていなかったんですが、どうやらそういう感度が将門の首塚に行ったことで上げられて、その亡くなる人からのメッセージを受け取れたんじゃないか、と言われたりしました。

その方は東京出身で、葬儀は東京の実家で執り行われたため、お通夜に伺いました。北海道の方もたくさんお通夜に訪れており、みな無言で列席していました。そして帰りがけに、その方も我々も北海道でいちばんお世話になった方が、ひとりひとりと固く握手をしました。「また会おう」と言いながら。私はその方と握手するときに、その人の声が聞こえた気がしました。「もう絶対に、誰もいなくならないでくれ」という声でした。どこから聞こえたのかはわかりません。私の思い込みの空耳かもしれません。

お世話になった方が亡くなった2ヵ月後に、人生ではじめて第九合唱に参加しました。本番までに、その合唱団の指導者が長年闘病していた癌で逝去するというアクシデントもあり、参加者の第九への思い、メッセージがあふれるような演奏になったと参加者がみな自画自賛で終わった演奏会でした(実際に観客の皆様からの評価も高いものをいただけましたので、自己満足ではなかったと思いたいです)。私も遠くもう会えなくなってしまった北海道の方のことをずっと思いながら歌っていました。

これをきっかけに、今は合唱を続けています。もともと音楽が好きだったので、ほそぼそと楽しめる時間を作れることが、毎日の励みになっています。第九も毎年1回は乗るようにがんばっており、毎年の自分の反省を兼ねて、年末にどこかで絶叫(!?)しています。また、子供の頃からほそぼそとファンだった横浜ベイスターズの応援も社会人になってからは本格化(?)して、年間指定席を購入し、行ける限りは横浜スタジアムで野次を飛ばす日々を送っています。これらを通じて、学生時代や職場では絶対に出会えなかったであろう、いろいろな仲間ができました。もう無理に目標に向かって走らなくていい。毎日を少しずつ楽しく過ごしていこう。人生や自分の存在に意味を求めなくていい。そう徐々に思い始めるようになりました。

あとの人生の懸念はやはりこれからの生活、特に結婚するかどうか・・・なのですが、これは正直、迷っています。というのは、我が家はもう10年単位で「家庭内離婚」環境で過ごしてきました。父親が私から見たらどうにも小さい人間で、自己評価が無駄に高く、会社でうまくいかないことがあると家族に当り散らしたり、部屋に閉じこもって大声で叫んだりするような人間です。そのせいで幼い頃から父親はいない存在だと思っていたり、たまに機嫌がよくても腫れ物に触るように接してきましたし、この父親だからあまり家庭のことを突っ込まれたくないと、必要以上に自分のことを公にアピールしたくない、という思いを抱いて、これまでの人生を過ごしてきました。

両親の還暦を機に離婚させることも考えましたが、父はそうやって家の中で自分のワガママを遠まわしに炸裂させて我々に甘えているのは間違いなく、一人にしたら何をするかわからない、ましてや変なことを起こしたりしたら逆に我々にマイナスになるという思いがあります。そして母もパートの専業主婦でしかなく、自分ひとりで生活をできるほどという問題があり、離婚はできないと考えているようです。私と弟はありがたいことに定職についているので自立をすることはできますが、このような家庭を残していく踏ん切りがつかず、2人そろって実家で独身パラサイト状態になってしまっています。

こうした家庭環境でとてもまともな家ではないので縁談は無理だろうと思っていること、新聞記者を目指して30まで結婚を考えずに来てしまっており、貯金もなくもちろんその気もまったく浮かばなかったので、そのままでいいかなと思っていました。

しかし、先に書いたお世話になった方の急逝をきっかけに、もう少し人生頑なにならず、周りの人の助言や救いの手を取ってみようと思ったんです。私は新聞記者になれませんでしたが、それを家族を含めいろいろな人が自分の予想以上に期待し、応援し、心配してくれていたことを終わってから知りました。そして、その人たちに記者になるという最高の形で応えることはできなかったけれども、人生を簡単に捨ててはいけないんだ、と思えたんです。なので、もし縁があったら、嫌じゃなければお断りせずに(結婚までは考えないけど)オファーを受けてみようかな・・・と思い始めた矢先。なんとオファーが来ました。しかも、9歳も年下の坊やからwそんなわけで、自分の中の流れでOKしてしまい、現在1年ちょっとになります。向こうも若いので結婚が云々とか具体的な話はありません。私もどうしていいのかわかりません。どうなるかわかりません。こうご期待です(意味不明

そもそも、自分の人生がいつ終わるかわからないので、後悔はなるべく少ないほうがいい。だって死ぬときにもやっぱり、「新聞記者になりたかった」って言うのは間違いないから。上は向かないけど、少し前を見て、転ばないように、少しずつ進んで、楽しいことを積み重ねる毎日を過ごしていきたい。今はそんな思いで、日々を暮らしています。

最近、思うんです。新聞記者になれなかったのは、むしろラッキーなんじゃないかって。昔、お金を払って占いをやってもらったことがあります。結果は、「家庭運がない、でも仕事運はある。結婚は晩婚で、2人目に付き合った人と結婚する」と言われたんです。今の厳しい新聞業界を考えると、あこがれで、こうやってネタにできるところで終わってよかったんじゃないかと。いまだにそう自分に言い聞かせているだけかもしれませんが。ええ、確かに仕事で記者に会うと、「この人は記者になれたのに、どうして自分はなれなかったんだろう」って、かなりの確率で考えていますけど。もう、「記者になりたかったこと」は終わったこととして、自分の中で徐々に違う形になっているのだと、思っています。20代後半は、車窓から本社ビルが見えるのがつらくて、東海道線に乗れず、横須賀線で通勤していました。今は普通に東海道に乗ってますし、隅田川の遊覧船にも乗れるようになりましたから。いいんです。

その他、野球追っかけの話や、国内鉄道旅行の話でも同じ量書けそうなネタはあるのですが、今日はここらで〆たいと思います。

最後に、もうひとつだけ。

1月のひとり夜話の昼の回に、初めて参加させていただきました。ディープなオタク話を、決してオタクではない私にもロジカルかつ面白く話す岡田教祖(あえてそう呼ばせていただきます)には、本当にうなるばかりでした。特に、●●のお話の時に、話してる内容に関連する人を傷つけないマイルドな表現を瞬時に選んで言葉にできる“スキル”に感服いたしました。私は、新聞記者になりたかったくせに、言葉でいろいろな人を傷つけてきたんじゃないかと思っています。それが記者になれなかった原因じゃないかとぐらいに、思う毎日です。怖くてブログもできません。 Twitterも(これでも)かなり気を遣ってやっています。でも、あの日の教祖の言葉の選び方を参考に、ブログをはじめてみるのもいいかなと思い始めました。もともと文章を書くのが好きなので、ささやかな人生の楽しみを増やせるよう、近い将来チャレンジしてみようと思っています。自己満足で他人を傷つけていいわけ、ないですもんね。今は本当に、そう思います。あとは、ブログをはじめるなら、簡潔な文章を心がけるようにします。こんなにだらだら書いても、読んでもらえる確率、限りなくゼロでしょうから(悲哀

こんな駄文を最後まで読んでいただき、ありがとうございました!

*******メール紹介、終わり*******

 書いた●●さんも、読んだあなたも、お疲れさま。
 いろいろ感想はあるけど、とりあえず彼氏もできたし良かったね、ということで逃げさせて貰います(笑)

 今日はここまで。
 じゃ、明日は「レコーディング・ダイエット2.0のススメ」でね。  


Posted by 岡田斗司夫 at 10:15